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2005,05,01, Sunday
神の箱庭
性善説、性悪説、というのがある。方々よくよくご存知の向きも多いとは思うが、両者についてかいつまんで記す。性善説とは、「人は生まれつき善い心をもっていますよ、困っている人を見たら助けてあげようと思うでしょ?」というもの。性悪説とは、「人は放っておいたら自分の利益ばかり追求してエライ事になる。ルールで縛らないとね。」みたいな感じだ。
私はどっち派か。もし年末に孟子vs荀子のアルティメットファイトが執り行われるとしたら、私はジュンちゃんのセコンドに立つ。別にワルぶっているワケではない。確かに、シャアとかダース・ヴェイダーとか曹操とかハカイダーとかボヤッキーとか、いわゆるダークヒーロー的なポジションが好きではあるが、それとはまた別だ。 性善とか性悪とか、そんなハナシを知るよりはるか以前に、ある想いが己が胸中に生まれていたのだ。あれは小学生の頃だったろうか、何かの授業で「世のため人のために善いことをしましょう」的な事を諭された私は、言われるがままに善行を繰り返していた。ところがある時、「また善い事をしたなあ」と喜んでいる自分を認識したのだ。 「世のため人のため」と思っていたのに自分が喜んでいる。結局「自分のため」?ちびっ子だった私は混乱、困惑した。後に「偽善」という単語を覚え、「ああ、そうだったのか」と安堵したのを覚えている。スッキリしたのはいいが、以来「善」というものに対して懐疑的というか素直になれなくなった。そして「悪」である己を苛んだ。 だが今では、「世のため人のため、ひいては己のため」をモットーに、周囲がハッピーで自分もハッピーならそれが悪だろうが偽善だろうがアリアリじゃん、という済し崩し的な思想に基いて生きている。これこそが究極の悪な気がしないでもない。 そんなワケで、悪を容認しつつ絶対善に対し極めて否定的な私は断然ジュンちゃん萌えなのだ。多分に宗教的なニオイのする孟子の論に対し、荀子は極めて現実的である。彼は「”礼”による教化・統制」の必要性を説いた。礼とは要するに法、である。悪たる人の世は、法による規制があってこそ秩序が保たれる。悪たるがゆえに、その法すら犯そうとする者が後を絶たない。 もし、この世に法律がなかったら?何をやっても罰せられる事がなかったら人は、社会は、どうなるのか。果たして今のままの状態を保つ事ができるのだろうか。子供の頃は、そんな事に考えを巡らせていた時期もあった。今ではそんな事をつらつら考える暇などないが。さまざまな「ゆとり」は人を哲学者にする。アリストテレス然り、ゴータマ・シッダールタ然りである。自分を彼らと同列に置く気は毛頭ないが。 最近、この「礼なき世界」の縮図をあるものに見出した。某大型掲示板として名高い「2ちゃんねる」である。今や某、がつかなくなる程ネット以外のメディアでの露出度が高まってはいるが。ここには多くの人間が集まっている。そして各々好き勝手な事を言い放っている。もちろんマクロ的に見れば厳然としたルールは存在しているのだが、そんな釈迦の掌の存在を知ってか知らずか、与えられたワクの中で人間どもが無法の限りを尽くしている。 ある場所では、混沌とした現状を見かねた者がローカルルールを制定したりもする。現実社会における法もこうした経緯で作られたのだろうか。またある場所では、本当に「心の闇」(大嫌いな言葉だが、便宜的に使用する)でも抱えてんじゃないかというような輩が病的な行為を繰り返している。 私はこのサイトを、かつて想いを馳せた無法地帯のディオラマを眺める気分で楽しんでいる。よくもこのような面白い物を考案した神がいたものだ。決して否定しているわけではなく、むしろ肯定的だ。技術系の板では有用な情報を得られる事が多いのも事実。趣味系はほとんどがゴミだ。学術系は半々といったところか。 情報収集、意見交換、そして箱庭観察。こんな楽しみ方をしている私はやはり「悪」趣味だろうか。 |
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